阪神・淡路大震災の記憶。一年に一度「生きる」と言う意味を考える日。

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こんにちわ、ハマケンです。
今日は阪神・淡路大震災の時の記憶を書きます。
なので主観的な事がかなり書いてありますので、あしからず。

振り返ってみると本当にあっという間です。
1995年1月17日の朝は今でも忘れることはできませんね。
ベットの上を体がスライドした事や、母が慌てて部屋に飛び込んできた事、
ボンボン時計が揺れで止まってしまった事などを鮮明に覚えています。

あれから、18年-。

忘れてはならない、出来事、人。

私が住んでいた姫路は被害は比較的に少なく、その後テレビで映し出される
景色が対岸の火事に感じました。

中学生だったあの時代、学校でも全員が地震で話が持ちきりだった。

地震後、当分の間テレビでは被災地の酷い様子が伝えられた。
直後は、長田区の火事の様子が流れていたのを記憶している。

震災から数週間後、母と兄と一緒に三宮に行くことになった。
姫路から新快速に乗り、長田区の前を通った瞬間に、一人のおじさんが

「うわぁあーー!!」と叫んだ。

目の前の全てが焼失した景色が広がったからだ。
静まりかえる車内で圧倒的な何かに押しつぶされそうになった。

三宮で降りると人は意外に沢山いて、南口から出た時に
「頑張りましょう!」と、バナナを配る女性がいた。

大丸方面に歩いて行くと、ガタガタになってしまった歩道が歩きにくかった。

中華街では、人がすごい混み合っていた。
以前から「民生」でよく食べていたので、この日も並んだ。
こんな時でも営業している中華街ってすごい、と感じた。

用意できるメニューは非常に少なかった。
5品位だったんじゃないかな。

「他の人が食べれなかったら悪いから・・」
と言って、母はチャーシューのみを注文した。

一皿に6枚程が切り分けられて並び、3人で2枚ずつ食べた。

到底以前の神戸に戻れるとは、正直思えなかった。

これが、私の震災の一番鮮明な記憶。

時間というのは恐ろしい。
次第に地震の事を忘れ、日常に戻りゆく世間。

18年経った今では、神戸のルミナリエや117の日でしか関東では耳にしなくなった。

表面的には、ほとんどの部分で目にはしなくなっている。
でも、今の長田区は恐らく相当な部分が新たに建てられいるし、
震災で甚大な被害に遭われた方、またその周辺の方々は、今でも続いているのだろうと思う。

どう言った景色、人、感情だったか。
それを忘れてはならないですね。

そして、2011年に発生した東日本大震災。

今だ復興には遠く、放射性物質は関東に大きな影響を及ぼしている。
しかし、多くのメディアでは、被災地の様子を伝えることはない。
WEBでは毎日伝えているサイトがあるが、能動的に情報を取りに行く事がなくなっている。

今、私は18年前と比べて、何が違うんだろう?

少しはお金も持つようにはなったし、自分で行動もできる。
でも結局は変わっていない気がする。
募金やモノを買うことでしか支援ができない。
まだまだ無力な自分。

だが、一つ変わったと言えば、価値観だ。
家族や友人との繋がりを大切にし、発信を継続することで「生きている」ことを伝える。
自分には関係ない、と無関心に生きることは勿体ないと感じる様になった。

そして時代も変わった。
WEBサービスは個人の発信、繋がり、広がりを中心にしたモノが多く立ち上がり、
組織的なモノから、まるで「シナプス」の様に有機的に繋がりはじめた。

だからこそ、個人は発信をしていかなくてはならない。
僕たちの次の、またその次の世代が、僕らのログを追える様にね。

何も毎日考える必要はない。
だけど一年に一度位「生きる」と言う意味を真剣に考えても良いんじゃないかな。

それでは。




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ハマケン Hamamoto Kensaku

会社員ブロガーです。スタートアップやマーケティング、個人的に面白いなと思った動画をアップしていきます。最近は薄毛をどうにかリポジショニングできないか考えています。お気軽にフォローをお待ちしておりますー。



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