明けましておめでとうございます、ハマケンです。
寝正月を過ごしていますか?w
私はテレビっ子なので、ずーっとテレビをみつつ、思い出したようにブログを書いています。今日はとても真面目な記事。
私の祖父が1984年にある雑誌に寄稿をしましました。
その記事をいつも大切に持っていて、正月になると読むのですが、
それをそのまま記載したいと思います。
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虜囚の正月
私は正月が来ると必ず思い出すことがある。
一億一心、撃ちてし止まぬ、欲しがりません勝つまでは・・など、国家の内外にわたって聖戦完遂のため死力を尽くしていたが、20年8月15日遂に終戦を迎えた。
吾々在満州軍及び在留胞人は、その方向を一瞬にして見失い治安も何もなかった。終戦になってからソ連軍に抑留とはいうものの実態は俘虜である。
満州錦州省錦県(錦州とも言う)に約10部隊が集合し武装解除を受けた。広い飛行場に並ぶは練習機の、またその練習機も(NHK雲のじゅうたんの飛行機偽称九五式練習機)これではと思う廃品クラスのが集合を終わっている。
ソ連・ナホトカより送還という話が伝えられ、夫々部隊毎に貨車に乗せられて動き出した。阜新(石炭の露天堀で有名な所)にある火力発電所の解体工事に従った。
独・シーメンス社の発電機の解体移送であった。
終わって12月、再び貨車に乗る。
今度は帰還ということ、奉天、新京、ハルピンと北上し、ハルピンで二日間、列車が動き出すと、東南方向に行くべきが北西に磁石は向く。
全員ソ連行きと観念した。
一面の砂漠ノモンンハンに通じる砂漠だ。遂に鉄条網のある一駅についた。これが満州とソ連の国境の駅、州里である。
ここでまたソ連軍の将校はハバロフスク経由ナホトカ行きと伝えた。
列車が動き出す。
磁石は北北西から北西に、そして南西と変わる。
こうなるとどの方向に行くのかさっぱりわからぬ。
降りた所がソ連と外蒙古の玄関口の駅で山ひとつ超えた集落に入り、トラックで二日間一直線に南西に向かう。
城のようなものが地平線の彼方に見えてきた。
行く程に大きな街である。砂漠の中に忽然と姿を現した。
私たちの学生時代では庫倫(クーロン)即ち、現在のウランバートルであった。
それから2ヵ年の俘虜の生活が始まる。ラボート(労働)ラボートの毎日、土木建築、伐採、石切、レンガ積等建築に必要なあらゆる工事に従事した。
時々海外ニュース等でウランバートルが映し出されると、あれもこれもと想いだす。苦しさと懐かしさ(生きて帰ったから)が脳裏を走る。この様な時に人間は朝起きると生きられるか、夜寝るときは今日も一日生きていましたと殆どの者が自問自答をしていたのではないか。
只あるのは食料の事の想い出ばかり、ほかのことは全然考えなかったように思う、ただ食べる事と眠る事と帰国する事だけ。お互に励ましあって生活共同体を作っているが、その中に要領の良い権利迎合主義の者がいた。
どの様な極限にあってもゴマスリが居ることは人間という頭脳のさせることである。
俘虜の正月は一日の休み。
今頃は餅を食べてお宮参りをしてと空想は何処までも伸びるが朝食の時、目を疑った。
目の前に餅があるではないか。
正真正銘の餅、なんべん目をこすってみても餅だ、同僚に「おーい餅だ」と叫んだ。
私の所属する炊事係が造ってくれたものだ。涙の出るほどうれしい。
炊事係を呼んで糯米はどうして手に入れたと不審点をきく。
しかし彼は「よく出来ているでしょう、さあ食べなさい」という。
もったいない、到底箸をつけられるものでない。
しかし腹の虫は早く早くという。
目をつむって箸をつけた。ポロリと餅がくずれる。
おや、餅ではないのかとよく見ると、粟(アワ)を煮たものを餅の様に丸めたものだった。
食べたいと思う心は物まで曲げて見せるもの、炊事係が粟を丸めて餅の様にして正月気分を味わわせてくれたものだった。
しかし、この粟で作った餅は未だに忘れることが出来ぬ。
天上より頂いた餅であったと思っている。
炊事係の心温まる正月の贈物であった。
昭和59年1月1日、今食べている餅は本当の餅。
私は正月が来る度にこの俘虜の餅を想い出して人生の基と考えている。
耐乏と贅沢の境はその人の心にあると正月の来る度に想起し、有り余る世は、勤労の意慾をなくし、物の有難さと天地の恵みに感謝の心をなくすることだと一人考える。平和すぎることは人間の、国民の、愛国と敬愛の心を失わせる。
必要もない生産過剰は将来経済を破壊して自分の首をしめることになるのではないか。人間性のある温かみのある年でありたいと正月の祝餅を食べつつ考えている。